スナックおはるのざれごと

はるママが日々閃いたあれこれをざれごとチックに語ります。

「信心深い」は悪いこと?《宗教と信仰の話》

こんにちは。

転勤を8月に控える今日この頃、引継ぎに奔走するはるらっしゅです。

 

総務のお仕事は多岐にわたるので、引継ぎは永遠に終わりません。
とりあえず必要最低限を引継ごうと思って簡易マニュアルを作ってみると、ワード106枚の超大作が出来上がりました。

いや簡易で100枚を超えるとか、こんなの一体誰が読むのよ。

今思えば4年前、私も前任から渡されたワード60枚分の引継ぎマニュアルを両手に抱えて「これ、多過ぎでしょ。」と途方に暮れていましたが、今思えばあれは、かなり削った内容だったのかもしれない。

仕事というものは、意外とブラックボックス化している事が多いようです。
次の仕事では、逐一引継ぎマニュアルを仕込んでおこうと学びました。


さて、本日のテーマは前置きとは全く関係がない【宗教と信仰】です。
どうぞ最後までお付き合いいただければ幸いです。

 

 

信心深いはるらっしゅ

私は特定の宗教に入信しているわけではないけれど、信心深い。

私の父が特に信心深く、実家の神棚は綺麗に手入れし、毎朝毎晩手を合わせ、ベッドの頭の方にはよく分からないお札が貼ってある。

実家に住んでいた頃は、毎日神棚に手を合わせてから外出するように強く言われていたし、年明けの氏神様への初詣は、私がどんなに二日酔いでグロッキーな状態でも、毎年引きずられて参拝させられる。


そんな家庭で育ったせいだろうか。

私の一人暮らしの家にあるドレッサーの上は、私にとっての神棚となっていて、ご祈祷で賜った木札やお守り、おみくじを祭る場所と化している。

それを見た元彼たちは、一様に引いていた。

 

そんな信心深い私には、誰にもわかってもらえないであろう、絶対のルールがいくつか存在する。


まず1つ目。
私には、正月の深夜0時に参拝する神社、仕事の報告に行く神社、恋愛について報告に行く神社、ご祈祷を受ける神社、おみくじを引く神社‥といった具合に、用途に合わせて参拝する神社が全て決まっている。

どんな状況下に置かれても、これは絶対だ。

神様は神社から離れられないから、私が顔を見せて報告に伺うことで、まるで田舎の祖父母に会いに行くような心境になると同時に、私にとっても良い節目となって、また頑張る活力が生まれる。

なので、休日に高速道を時速120㎞でぶっ飛ばし、わざわざ参拝に行くことは割と日常茶飯事なのである。


そして2つ目。
自分でも面倒くさい性格だと思うのだが、買ったお札やお守りは1年後に必ず、買った神社に奉納する。

私にとってそれらは、その神社の子どもみたいなものだと思っている。

親元を離れて寂しかろうに、そんな素振りを微塵も見せずに毎日私を守ってくれている。

こんなの、感謝しない方がおかしいだろう。


誰だって実家が好きだ。
私だって暇があれば実家に帰りたい。

でもお守り達は自分の力で実家には帰れないから、私が「1年間私を守ってくれてありがとう」と感謝を込め、任期満了ということで奉納しに行くことで、お守りの魂を親元である神社に戻す。


こんな感じで色々とルールが存在するのだが、先日この話を父に話した際「え、そこまで?」と若干引かれた。

正直、枕元にお札を張っている人に引かれたくはないよね。

 

信心深さは運に比例する

先に申し上げるが、これはあくまで持論であって「何かに入信しなさい」という勧誘ではないので、あしからず。
そもそも私は、どの宗教にも入信していないし。


先日ネットサーフィンをしていた際、こんな記事を読んだ。

president.jp

 

私も比較的運が良い人間で、特に人に恵まれていると昔から思う。

例えば、転勤に伴う家探しは「土地勘が無さ過ぎて、これはあかん」と頭を抱えた私の上司が「ここ俺の地元だから」と、わざわざ有給を取って一緒に内覧に行ってくれることになった。

奇跡はこれに留まらない。
私の転勤が決まったと同時に仲の良い同僚の転職が決まって、同時期に同じ土地へ引っ越すことになった。

こんな感じで、私には必要な時に必要な手助けが常に用意される。


上記の記事では、信心深い人と運の良さをこのように解説している。

信心深い人は周囲への感謝の念が強い人であり、寺社仏閣に足しげく参詣するのは、苦しいから神頼みをしているのではなく、日頃の神仏の恵みに感謝するのが目的だ。

そういう人は、自分の力を過信せず、周りの力もあって自分は生かされているのだと考えるため、周りからサポートを受けやすくなり、成功する可能性が高まる。

 

確かに思い返すと、私は神社に行ってお賽銭を投げた後、お願い事をしたことが無い。
いつも住所と氏名を述べた後、近況を報告した上で「これからも〇〇をこんな風に頑張ります」と締めるよう、父方の祖母に教わっているからだ。

それに常識で考えて、100玉1枚でお願い事を叶えて貰おうとか、おこがましいにも程がある。

だから私が神社に行ってお賽銭を入れる理由はいつも、私の決意を神様に聞いてもらうため。
それくらいの気持ちでいる方が、日々の嬉しい出来事により感動できると思う。

 

宗教とは、結局何なのか

信心深いと言うと、人から引かれることが多いような気がする。

どうしてだろうと考えると、その背景には敗戦と新興宗教による有名な事件があるという結論に至った。

国が徹底的に宗教を弾圧した結果、宗教に関する知識が無くなって苦手意識が生まれ、結果日本の宗教偏差値は世界最低レベルなったのである。

しかし、宗教と人間の繋がりというものは切っても切り離せない。
なぜなら、言葉がない時代から信仰というものはあったのだから。


そもそもなぜ宗教という概念は生まれたのだろうか。

これは持論だが、人間にはどうにもならない事象が発生した時に、それを説明するために生まれたものが「宗教」ではないかと思っている。

昔の人は病気や不作、日照りなど、人がどう頑張っても報われない事を「神様の怒り」という考え方で納得しないと、きっと腑に落ちなかったのではないだろうか。

人は弱いが故に分からない事を嫌うので、それらに答えを見出すために宗教が必要だったと思う。


では、なぜ科学が発展して病も不作も、日照りも解消出来る世の中になったというのに、宗教はなくならないのか。

それは【人が生まれてきた目的が誰にも分からないから】ではないだろうか。

人生の目的が分からなければ、頑張って生きる意味も分からない。

どんなに医療が発展して苦痛を緩和し、命を延ばすことは出来たとしても、その延ばした命をどう使えば良いのかは、誰も教えてくれない。

ここで初めて、宗教が役に立つ。

人は弱いが故に、分からない事をとにかく嫌う。

人が分からないの三大要素である「本当の幸福」「人生の目的」「死」は、科学や医学では解決できないから、宗教で答えを見出すしかない。
だからきっと、人類の存続する限り、宗教は無くならないと思う。

 

こんな話をすると、希望も何もないと非難されそうだが、私はこの世が地獄だと思って生きているし、この世は地獄だからこそ、この世には実態をもつ神様がいないのだと思っている。

だって、神様は地獄のような汚れた土地に足など付けたくなかろう。
だから「神社」という中継地点を立てて、参拝時に鳴らす鐘の音を介して地獄に住む愚民どもの声を聴いているのではないだろうか。
これは何かの宗教に影響されて言っているのではなく、純粋に自分の考えの基で思っている。
(これを友人に話した際は「まじで変わっている」と苦笑された。)

でも、こういう考え方も一つの宗教なのではないだろうか。

お金を稼ぐことに執着する人は、その心に「お金が大事」という自分の宗教がある。
科学的なものしか信じられない人は、その心に「科学が全てだ」という自分の宗教がある。

皆「私は無宗教だ」「宗教ってなんか怖い」などと言っていても、結局自分の中には自分の宗教がちゃんと存在していると、私は思う。

 

あとがき

日本には新興宗教も含め、18万以上の宗教法人がある。
世界で算出したら、その数はもう無限に近いだろう。

でも、それで良いと思う。

信じる者は救われるじゃないけれど、人の信じる力というものは、時に生きる上で大いに役立つ力となる。

あなたの心を軽くしてくれるものならば、何を信じたって正解だ。

互いに尊重し合いながら皆が幸せに暮らせるように、たくさんの宗教と信仰が共存できる社会が続きますようにと願う、今日この頃です。

 

lit.link