スナックおはるのざれごと

はるママが日々閃いたあれこれをざれごとチックに語ります。

ホロを散りばめたマジパン《美しさのお話》

こんにちは。

最近はK-POPの沼にハマって、抜け出せなくなりました。
化粧品から食べ物まで、ほぼ韓国産を選ぶようになったはるらっしゅです。

特に韓国贔屓をしているわけではなく、どうしたらK-POPアイドルのように美しくなれるのかと考えた際に「使う物や食べる物を全てK-POPアイドルに寄せてみれば、それっぽい雰囲気になれるのでは?」と思った次第です。

ええ、分かっています。元来私は極端な性格なのです。

でもいざやってみると、韓国の化粧品や衣服はおしゃれで質も良い。
「これはいけるかも!?」と思ったのもつかの間、食べ物は味が濃いものが多いせいか、少しだけ太りました。

しかしこれは、韓国料理が悪いという話ではございません、逆です。
キムチやサムギョプサル、ヤンニョムチキンにナムル。
あまりの美味しさに、私が食べ過ぎました。
朝にドレッサーで自分の二重顎を見た時の絶望たるや、いかほどか。

何事もほどほどが一番ということで、食事は以前のように和食中心に戻すべく、大人しく大根とイカの煮物をせっせと作っております。


さて、本日のテーマは【美しさ】。
久しぶりの投稿で少し腕が鈍っているかもしれませんが、どうぞ最後までお付き合いいただければ幸いです。

 

ホロを散りばめたマジパン

初めてK-POPアイドルを観た時の感想はこれに尽きた。

陶器を彷彿とさせる白い肌と歯。
ホロとラメを散りばめた大きな目。
まるでCGのような一糸乱れぬダンスと、砂糖菓子のような甘い声で歌うその姿。
当時【坂道シリーズ】と呼ばれる庶民派アイドルが流行っていて、それに見慣れた私からしたら、彼女達の完成されたその姿は衝撃的で、テレビにくぎ付けになった。

それ以来、私は何年も変わらずK-POPアイドルが大好きだ。
好きというより、お手本にしていると言った方が正しいかもしれない。

そして私はK-POPアイドルをきっかけに、韓国文化についても学ぶようになり、なぜK-POPアイドルがあれほど美しいのかを知って、腑に落ちた。
韓国人は芸能人だけでなく、一般人も容姿が整った人が多いのである。


韓国では生まれた時から、容姿や外見を評価されるらしい。
それは男女限らず、この子は美人だ、あるいはその逆も歯に衣を着せず、周りからはっきり指摘され、若者の会話の中でも「ねぇ、その目整形しちゃえば?」などといった話題が出てくる始末。(日本でやったら、友達を失くすこと必須。)
日本人も歯科矯正であれば抵抗はないけれど、韓国では親が子に整形を勧めるのだから、その度合いの差は明らかだ。
そして、そんな評価が幼少期から大人になっても永遠に続くのだから、外見至上主義になるのは当たり前だと思う。


人は様々な環境の中で、自分の個性や能力を評価される機会があるため、外見だけにこだわり続ける必要はない。
しかし、潜在意識の中に容姿に関する価値観は誰しも持ち続けるし、人は美を追い求める生き物なのである。

そして、それが特に顕著な韓国社会では、特に女性の場合、美を追求することが自己価値を上げる最大の手段だし、最新の美容法や化粧品が広がる以前から、韓国には民間療法的な美容法や美肌法が多く存在しているのも、韓国女性が昔から美容に高い関心を持ち、実践してきた証拠なのだと思う。

 

崩れたケーキは選ばない

美しさに固執することは悪か。

他者との会話の中で「美」に関するテーマは正直出しづらい。
出せたとしても、そこには必ず他者に対する「思いやり」という名の「お世辞」が含まれている。

「前髪切り過ぎちゃって」「え~、似合ってるよ!ちょうどいいって!」
「最近太ったかも」「全然変わってないように見えるよ?むしろ前の方が痩せすぎだって!」
といった具合にだ。

言う方も「フォローを入れてくれる」と事前に分かった上で言うので、ここで「うーん、ちょっと切り過ぎかもね」「あー‥確かに少し太った?」などと言った暁には、もうこの世の終わりである。

 

そんな「美」に関する話題で、私は忘れられないエピソードがある。
それは、新卒で入社した会社の採用担当に言われた言葉だ。

私が入社した会社では当時、内定者に対して「なぜ貴方がこの会社に受かったのか」「会社は貴方に何を求めているのか」という内容を、採用担当が内定者へ個別に面談して伝える機会が設けられていた。

そして私はこう言われた「貴女の一番の採用理由は、容姿よ」。

目が点になった。
え、容姿?私、色々頑張ってプレゼンとか‥え、容姿?
採用担当者は、目が点になる私ににっこりと微笑み、こう続けた。
ここから続く言葉の衝撃は、あれから8年経つ今でも忘れられない。


もしここにケーキが2つあったとして、片方は綺麗な形、片方は崩れていたとしたら、どちらを取る?
んー、はるらっしゅちゃんの性格じゃ、遠慮して崩れた方を選ぶかもしれないね?
じゃあ、ケーキじゃなくても良いわ。
買い物をする時、品を確認して傷が無いものを選んでレジに持っていくでしょう?
勿論人は顔だけじゃないけど、もし選べるなら綺麗な方を選ぶ。
採用だって選んでいるのは人間だから、結局はそういう基準になるのよ。


「どうせ売ってもらえるなら、綺麗な人から売ってもらった方が嬉しいじゃない?」と綺麗に笑う採用担当の言葉に私はショックを受けたが、同時にこれは真理だと思った。

美しさは力だ。
美しさはこの世界で生きていく中で、大いに役立つ「生きる力」になり得る。
時折美人が威圧的に見えると言われる所以は、多分これなのだと思う。
それ以来、私は外見に対する基準がより厳しく、美しさに固執するようになったような気がする。

 

私の顔の造りは良くも悪くも平均で、派手な特徴はないけれど欠点もない。
特徴がないからこそ、メイクや髪型、服、香水、アクセサリーでいくらでも化けられる、便利な容姿をしている。
自分でそれが分かっていたからこそ、私はそれらを駆使して綺麗だと評価されるようにずっと努力してきた。

当時の採用担当に容姿が採用理由だと言われた時、私は私のその努力が認められたような気がしたと同時に、私の考え方は間違いではなかったと確信した。


世の中「心の綺麗さ」とか「内面の美しさが大事」なんてよく語るけど、よくよく考えてみれば、ファーストコンタクトは結局、目に見える情報が全てなのである。
例えば合コンに行ったとして、綺麗な人とそうでない人が居たら、どちらと話をしてみたいだろうか?
内面を知るというのは、対話することが前提だ。
綺麗な人の方が話しかけてもらえる率が高く、内面を知ってもらえる機会も増えるのではないだろうか。


人の外見は生まれ持った形があるから限界はあれど、やはり自分を知って、自分の似合う服や髪型やメイクで、自分の限界値まで自分を高める努力をすべきだと思う。

外見を綺麗に整えれば、少なからず他人から親切にされることが増えるし、それに伴って自分自身も人に優しくなれる。

コミュニケーションを取る際に、自信と余裕が持てるようになる。
何もせずに惰性に生きて綺麗な人を僻んでいるような人は、それこそ外見だけでなく内面も荒んでいるように見えてしまうのは当たり前。

私もまだまだ努力の途中だが、それでも努力分は良い出会いやご縁はあったと思うし、何より自己肯定感が上がって、自分を好きになれた。

 

「可愛いは作れる」ならぬ「美人は作れる」なのだ。

 

目指すべきは《苺のショートケーキ》

とはいえ、容姿だけでは駄目だということは勿論分かっている。
容姿の綺麗はお金で買えるけど、それだけではいつか綻ぶ。

 

そもそも「美人」とは何か。
広辞苑によれば「『美』とは、知覚・感覚・情感を刺激して内的快感をひきおこすもの」とある。
つまり「美人」とは単に視覚的に整っているだけでなく、例えば聴覚(声)や臭覚(におい)、触覚(肌ざわり)は言うに及ばず、情感を刺激する雰囲気や所作、人となりまで全て含めた全体的な魅力によって、相手に内的快感を引き起こさせる人と定義することが出来るのだ。

 

この歳になると、色々な人と出会う。
そして、私が総じて綺麗だと思う人は「余裕がある人」だ。
他者の気持ちを思いやって、察して、相手を不快にしない言動が取れる余裕がある人。
ゆったりとした所作で、落ち着いた声色で話す余裕がある人。
そういう人はなんだか、話していてフカフカして気持ちが良いのだ。

皆が皆、顔の造形が整っているわけではない。
でもそういう人は纏う雰囲気がゆったりと余裕があって、なんだか妖艶。
そして、そんな人は少し崩れた顔のパーツすらアンニュイな魅力に思えてくるから不思議である。

 

見た目は滑らかで真っ白、苺の乗った華のある容姿。
そして、中身は優しい甘さのフカフカなスポンジ。
私はそんな、苺のショートケーキのような女性になりたいと思う、今日この頃です。

 

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