スナックおはるのざれごと

はるママが日々閃いたあれこれをざれごとチックに語ります。

曇天の東京タワー《近況のお話》

こんにちは。

先日私のInstagramを見た友人から「都会に染まってる。」と言われたはるらっしゅです。

あんなに東京嫌いだった私が、今や都会かぶれということか。

確かにこちらに来てから私は少し変わった気がする。

そんな私がなんだかとても皮肉な気がして苦笑している今日この頃です。

 

さて、本日のテーマは《近況》。

最近の出来事や思ったことをざれ言チックに語ってみたいと思います。

 

曇天の東京タワー

バッドマンのハーレイクインに憧れた。

精神に異常をきたすほどに誰かを愛するなんて素敵だ。

 

私の真上にある曇天の空に浮かんだ黒い靄を撫でたくて右手を伸ばしたけど、案の定それに手が届くことはなかった。

代わりに右手には烈風が当たって、反動で腕が後ろに押される。

下げかけた右手で乱れた髪を掻き上げ、視線を左に移し、空っぽの眼でビル群を見つめた。

 

地元をオープンカーでドライブする人を見かけたら、おそらく地方ニュースになるくらい視線を集めること必須だが、都内であればザラだと思っていた。

都内を通勤中、道路に視線を向ければ、そこにはアウディやベンツ、BMWにレクサスなど、車音痴に私でさえ分かる車が赤信号で停まっている。

都会の車など、所詮は娯楽品。

オープンカーなんて、それらと同じだと思った。

 

とある土曜の夜、銀座で待ち合わせた友人のオープンカーでドライブに出掛けることになった私は、その助手席に深く腰掛け、けだるく左に視線を移した。

行き交う人々の視線と私の視線が合う。

見られている。

ふと隣の運転席に視線を移すと、運転している所有者の友人は素知らぬ顔で私に笑いかける。

私は今までこういう人を路上から眺めている側の人間で、派手な人間が嫌いだったはずなのに、こちらに来て見られる側の人間とつるむようになって、見られる側になった自分が少し皮肉めいて見えた。

 

非日常的な楽しい世界に身を投じた後は、日常が色あせて見える。

海辺で恋愛の話になった際に「お金持ちは好きじゃない」と話したら「どうして?ハイスぺの方が良いじゃん。変わってる。」と驚かれ、それを悶々と考えるようになった。

 

こちらに来てから、自分なりに頑張って色々な人と会った。

11万円のベルトを一括で買う姿に対して眉間に皺を寄せるくせに、デート代を割り勘にしようとする姿にも不快感を感じる。

聞いてもいない自分の昔話を嬉々として話す姿に呆れ、一方で無口な姿に怒りを覚える。

それぞれの人にそれぞれの魅力があるというのに、なんだかいつも違うのだ。

結局私は、どんな人に恋をするのだろうか。

 

なりたいものとなるべきもの

きっかけなど、本当に些細なことだった。
このブログの集客のために始めたInstagramに届いた、たった1通のDM。
興味本位で返信したことで私の生活は一変した。


《ライバー》というものになってみて、早2週間。
以前もそんな話が浮上して、デビューの一歩手前まで話が進んだが、その話は途中で頓挫した。
それ以来、今回は違う事務所に所属してのデビューだったが、ライバーという世界は非常に未知なるものだった。


ユーチューバーという職業が確立して久しいにも関わらず、ライバーは聞いてもいまいちピンとこない。

要因は様々あるだろうが、たぶん2つ。

1つ目はインターネットを使用していれば登録不要なYouTubeと違い、ライブ配信は専用アプリをインストールする必要があること。
これによって、アプリをインストールした一定数しかライブ配信を視聴できない。

2つ目はイメージの問題。
広告収入が主で収入源が企業なYouTubeと違い、ライブ配信は視聴者から直接アイテムという形で収入を得る。
高額なアイテムがいとも簡単に飛び交っているように見える、そんな姿に嫌悪を憶える人が一定数いること。

これらがライバーが世に浸透しづらい要因だと思うし、ライバーを始める前の私の考え方だった。


ライバーを初めて1週間後に小さなイベントに参加し、何時間も座りっぱなしで配信した。

そして、12時間近く私が映る画面に向かって話しかけ続けながら、色々な事を一人で考えた。

目が乾いて涙が出そうになるし、ずっと喋っているから喉も痛い。
ライバーがこれだけの労力をかけて配信していたなんて知らなかった。

イベント最終日の最後1時間で私は1位を獲得し、泣き顔を世間に晒す始末だったが、その涙は嬉しさだけではなかった。

勿論、苦労が報われて嬉しかったし、そこまで応援してくれた人々全てへの感謝の気持ちもあったが、それ以上に私は怖かった。

ライブ配信を始めて2週間も経たぬ私が、普通であれば到底得られぬポイント数に達しているこの状況も、その応援に応えられるか分からぬ不安も、全てが怖くて泣いたのだ。


何時間もの長時間配信に張り付いて、一緒に配信を支えてくれる方。
たくさんのアイテムを投げて、応援してくれる方。
自分の配信を止めてまで、応援に来てくれる方。
何も取り得が無い一般人の私を、なぜここにいる人々は応援してくれるのか。


今思えば、このブログもInstagramもそうだった。

ただ文章を書いてみたいという欲だけではじめたこのブログは、180名を超える人がフォローして、時間を割いて私の書く文章を読んでくれる。
Instagramは2500名のフォロワーがついて、時間を割いて私の投稿にいいねをくれる。


私達はいつも多くの人に支えられて生きていることを忘れがちだ。
頑張れば頑張るほどに視野がどんどん狭くなり、ひとりで頑張ったつもりになって、周りが見えなくなってしまう。

今回もそうだった、私ばかりが辛いと思っていた。
でもそうではなかった。
辛いのは私ではなく、それを支える周りだったと思うのだ。


当たり前だけど忘れがちな、そういう事実を大切に咀嚼できる人間になりたい。
そして、それが私のなるべきものだと思った。


ライバーイベントで一位を取ったその日、アドレナリンが出てなかなか寝付けない中、
ホットミルクの淡い湯気を見つめながら、そんな事を考える午前2時半だった。

 

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ぼの先輩から学ぶ頑張らない生き方《生き方と処世術のお話》

こんにちは。
9月に入り、暑い中にも夏の終わりを日々感じているはるらっしゅです。


引越しからあっという間に一ヶ月が経過し、やっと生活が安定しました。
一人で入れる居酒屋さんや友達も出来て、お金がどんどん消えていきます。
でも、会いたい人もたくさんいるし、お誘いもたくさんある。
彼氏も欲しいから婚活もしないとならない。
残り数ヵ月は必要経費と思って、目を瞑ろうと思っています。


さて、毎日色々な人に会っていると心が少しずつ疲れてきます。
楽しいけれど、どこかで人に遠慮し、良い顔をする毎日。

ということで今回のテーマは【生き方と処世術】。
最近思う、心に優しく幸せな生き方についてざれ言チックに語ってみたいと思います。

 

 

巷で話題の「繊細さん」

巷で話題の「繊細さん」。
私、はるらっしゅも少しだけ該当します。
HSP(エイチエスピー)は、英語でHighly Sensitive Person(ハイリ―・センシティブ・パーソン)の略称。
「人の気質」を表す名称で、通常の人より繊細で敏感な人のことを指します。
アメリカの心理学者アーロン博士によって名付けられ、世界人口の15~20%が該当すると言われています。

 

もしや私も?「繊細さん」セルフチェック

以下の質問に7個以上当てはまる方は、HSPの可能性があります。

  1. 大きな音・強い臭い・鋭い光を、人一倍不快に思うことがある
  2. どんな失敗が起こりうるか予測して対応策を考えることに、毎日かなりの労力を費やしている
  3. テレビなどで暴力シーンをみると、その後何日も影響されてしまう
  4. 涙もろい
  5. 他人と2、3時間一緒にいると、疲れ果てて動けなくなってしまう
  6. 誰かの怒りを感じると、それが自分に向けられたものではなくてもストレスに感じる
  7. 勢いや気持ちで行動せず、よく考えてから動くほうだ
  8. 社交の場に行くと人一倍疲れる
  9. サプライズが嫌いだ
  10. 周りの状況で、自分の言動がかなり大きく影響を受ける

 

「繊細さん」の知っ得ライフハック3選

ここからはHSPである私が、日々実践しているライフハックをご紹介!

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HSPについて知る

まずはこれです。
知ることで、自分の悩みが「気質」によるものだと気づき、対処のきっかけになります。

▶マイルールを作る

HSPは、普通の人では気が付かない細かい事まで先読みできます。
その分、余計に考えて働き過ぎる側面がありますので、あえて「見ない、やらない」というルール設定をすることが大切です。

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出典:「気がつきすぎて疲れる」が驚くほどなくなる 「繊細さん」の本

▶自分と外界に境界線を作る

最も大切なライフハックです。
周りから影響を受けやすいHSPですので、外界をテレビに映る画面のような、あくまで「自分とは関係ない」と認識できる工夫が必要不可欠です。


ちなみに私の場合は、会社ではPC眼鏡をかけることでレンズ越しに見える世界をテレビ画面と同じだと思い込みます。
人と話す時は、必ず間に物(ペンや携帯電話など)を置いて、境界線(バリア)を張っています。

画像
出典:「気がつきすぎて疲れる」が驚くほどなくなる 「繊細さん」の本
「繊細さん」の取り扱い説明書

「繊細さん」を代表して、皆様に申し上げます。
ぜひ近場にHSPチックな方がいる方は、こんな事に配慮してあげてください。

▶ドアバン、窓バンをやめてください
▶頑張っているので、頑張ろうと言わないでください
▶ 意見は求めていないです、とにかく共感して優しく受け止めてください
▶しつこくされるのが苦手です
▶初対面でいきなりため口とか、馴れ馴れしくしないでください
▶こそこそ話はやめてほしいです
▶ 冗談が通じにくいので、発言に注意です
▶あなたが嫌いなのではなくて、一人の時間が必要なのです
▶ 疲れやすくて、眠くなりやすいです
▶ 基本心配性です
▶考え込むとシャットアウトします
▶いいよと言うけど、内心はとても我慢しています
HSPに向かってため息は厳禁です

最後に

「繊細さん」は病気ではなく性質なので、こんな長所があります。

・細かいところに気がつける
・丁寧に仕事を進める
・コツコツと努力ができる
・記憶力がよい
・想像力や感受性が豊か
・危機管理能力が高い

何事も一長一短です。
HSPの方もそうでない方も、互いが気持ちよく共生できる世界になりますように。

 

 

ぼの先輩から学ぶ頑張らない生き方

私の会社のGmailのアカウント写真は、ぼのちゃんの顔だ。
Googleのアイコンは形が丸だから、顔のドアップを設定してみたら、顔が浮き出たみたいになって非常に可愛い。

 

そしてこの可愛さは、周囲の人も癒している模様。
先日仕事でミスをして上司から連絡が来た際も、ビデオ通話で画面オフにした結果、可愛いぼのちゃんの顔のドアップが映り、「お前これ、、、ずりーよwwww」と叱責を免れた。

 

ぼのちゃん、いつもありがとう。


そんなぼのぼのは、私のバイブルだ。
これを言うと「ぼのぼのw」とか「そうなんだw」と若干バカにされがちだが、私は声を大にして言いたい。

 

ぼのぼのは凄いのである。
その辺の自己啓発本哲学書を読む暇があるなら、ぼのぼのを読んだ方が有意義である。
特に受験戦争に追われる中高生や、働きはじめの新人社会人さんは必読なのである。

 

お盆休みが終わってちょうど一ヶ月。
皆さん、そろそろ疲れが出て来る頃ではないだろうか。(私は瀕死。)
今日は私と一緒に、ぼのぼのの世界で癒されてみませんか?

↓今回執筆するにあたって参考にした書籍↓

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世の中についての名言

世の中はすごく広いよね。そんなに広いんだから少しだけちがうところがあった方があたりまえだと思うけどなー。

 

たいへんなことはいつも起きていて、ボクたちがそれを知らないだけなのだろう。

 

生き方についての名言

何かを探すんだったら道をまちがえちゃいけないよ。ひとつでもまちがえるともう見つからないよ。でもまちがっても大丈夫。別なものが見つかるから。

 

後でこまるんだったら、後でこまればいいじゃねえか。 

 

楽しいことは必ず終わるし、苦しいことも必ず終わる。この世にあるのは全部必ず終わってしまうことばかりだ。なぜだと思う?それはたぶん、生き物というものが何かをやるために生まれてきたわけじゃあない証拠だろう。

 

腹が立つことがあっても許して忘れるのです。昨日あったいやなことを忘れずに今日も生きていると、自分が古びて行くような気持ちになりませんか。許して忘れるのです。一度やってみてください・・・

 

その他の名言

シマリスくんはユーウツなのだ。ユーウツというのは、こまることをこまることだ。

 

たくさんあると価値がうすれるのなら、そのたくさんていくつのことでぃすか?

 

物がいつからゴミになるかって?物は最初からゴミなのさ。

 

そうか、強くなるっていうことはわかることか。わからないからこわいんだね。

 

いかがでしたか?
今回はたくさんあるぼのぼの名言集の中の、ほんの一部のご紹介でした。
皆さんの心に優しく寄り添える言葉が一つでもあれば幸いです。

 

私も最近少し疲れ気味。
たまには日々の喧騒から逃れて、今週末は風と仲良くしてみよう。
最後に、私が最も好きな《ぼのぼの名言》をご紹介してさようなら。

 

生き物は、絶対、こまるんだよ。こまらない生き方なんか、絶対、ないんだよ。そしてこまるのは、絶対、おわるんだよ。どうだ、少しは安心してこまれるようになったか?

 

手を繋ぐのは、また今度。《恋愛と美しさのお話》

こんにちは。
二日酔いがしんどいはるらっしゅです。

少しずつ新しい生活に慣れて飲みに行ける余力が出来たと思ったのもつかの間、以前からの知り合いや会社の付き合い、その他諸々で平日の夜が全て飲み会で潰れ、財布と肝臓が異常事態です。


昔は終電の電車でウトウトしている女性を見ると「不用心だなぁ」などと思っていたけれど、今ではそのウトウトしている女性が私。
年々少しずつお酒に弱くなっているような気がする・・
今予定されている飲み会が終わったら、禁酒でも始めてみようかなと思っています。


さて、今回のテーマは【恋愛と美しさ】。
二日酔いの頭を抱えながら、久しくご無沙汰な恋愛についてざれごとチックに語りたいと思います。
ぜひ最後までお付き合いいただければ幸いです。

手を繋ぐのは、また今度。

こっそり直した口紅の居心地が悪い。
こんなに頑張って選んだ服も、30分もかけて施した化粧も、なんだか滑稽に思えて、視界が少しずつ灰色に滲む。
そして、楽しそうに話す彼ににっこりと相槌ちを打ちながらこう思うのだ。


「好きってなんだっけ。」

 

マッチングアプリで出会うということ

無事お引越しを終え、新生活をスタートさせたはるらっしゅ。
全てが順調で、既定路線通り。
仕事も無事に始まったし、蜘蛛の巣のような路線図も早歩きで乗りこなす。
皆そうやって都会に慣れて、そして皆へ平等に訪れる最初の試練。
そう、それがホームシック。

 

はるらっしゅも例外なく、いや、控えめに言って普通の人の3倍程度のホームシックにかかり、冗談抜きで死にそうです。
転勤で引っ越してきた人がさっさと彼氏を作って結婚していく理由が、今ようやく分かった。
だって知り合いがいない土地での生活は、孤独で寂しいから。

 

ということで始めた『マッチングアプリ』。
開始1日目でそれなりのいいね数を稼いだおかげか、40人近くと同時にやりとりして思った。
「これ、身も金ももたない。」

 

初日で8月のほぼ全ての予定が埋まったスケジュール帳を見て、私は自分の時間が減っていく焦燥感と彼氏が欲しい寂しさの間で葛藤していた。

とりあえずいろんな人と会う事が大切だと思って、頑張っておしゃれをして出かけても、何かが違う。
皆良い人なのに、何か違う。

 

食事をした帰り道、少し酔ったふりをする私を心配してか、皆は自然に手を握って駅まで送ろうとしてくれる。
「酔ったふりをしているのは、早く帰りたいからなんだけどな。」
彼らに手を委ね、その繋がれた手を眺めて、マッチングアプリで出会うということを考え、そして毎回こう思うのだ。


「好きってなんだっけ。」

 

好きってなんだっけ。

人を好きになると、胸が甘く苦く、苦しくなる。
それはまるで、スティック1本分のお砂糖が入ったホットコーヒーによく似ている。

 

朝起きて一番に彼を思い出し、ちょっとした嬉しいことを共有したくなる。
その大きな手で触れられると、安心して無性に泣きたくなる。
私だけを見ていてほしくて、その目線を一生懸命に追ってしまう。
「まるで病気だ。」そんな風にひとりごちて、そしてそんな自分に苦笑する。
思い返すと、私にとっての「好き」って、多分こんな感じ。

 

運命の人は3人いるなんてよく言うけど、私の場合、うち2人とは結ばれなかった。
でも伝えずにはいられなくて、ある日「あなたが好きだった」と伝えたら、彼は少し驚いた様子で、そして少し切なそうに「俺も好きだった」と言ってくれて、そんな彼と私は親友になった。

好きな人と手を繋ぐ、あの幸福感が好き。
だからこそ、早く残りのひとりを見つけて、大きな手で私の手を引いてほしいと思うのだ。

もう、誰とでも手を繋ぐのは止めようと思う。
好きな人と手を繋ごうと思う。
願掛けを込めて、次から手を引いてくれる初対面の人にはこう言おうと思う。
手を繋ぐのは、また今度。

 

嫌いな人と寝る夢は。

嫌いな人と寝る夢は、好きな人とのそれより甘美だから皮肉だ。


寝ている私に「今いいか?」と低い声で話しかける彼を、私はベッドの中に引きずり込み、少しタバコのにおいがする彼のTシャツに顔をうずめた。

彼は「おい」と微笑ながら私の髪を掻き撫でて、そして私のこめかみにキスをした。

そこで私は目が覚めて、それが夢だと分かるまでの数秒間、放心していた。

彼のあんな優しい顔は、はじめて見た。
それが今朝方に見た、私の夢。

 

好きと嫌いはよく似ている。
人は自分とよく似た相手に強い興味を持ち、その似ている部分によって好き嫌いが変わる。
つまり、人の好き嫌いは「類似性」から生まれる感情なのだ。

 

人は相手に自分の嫌いなところを見ると、その人を嫌いになる。
これを同属嫌悪と言う。
例えば顔の造形や歯並びなど、自分のコンプレックスと同じ特徴がある人や、人見知りや自己中心的などの自分が欠点だと思っている性格と同じような性格の人に嫌悪感を抱く。

 

そして、自分が我慢していることをしている人にも嫌悪感を抱く。
これがいわゆる【嫉妬】という感情であり、女性がぶりっこを嫌う主な原因だ。
例えば、ワガママを我慢している姉はワガママな妹を見ると腹が立ち、節約を心がけている主婦は散財している独身女性を見ると非常にむかつく。

 

逆に、自分と同じ趣味や価値観を持つ人のことは好く。
これを同類選択と言う。
共通点が多ければ多いほど衝突が少なく、ストレスなく一緒にいられるので、人は本能的にそういう人を選ぶようプログラムされており、これが俗にいう【類友(類は友を呼ぶ)】だ。

 

一方恋愛では、外見が似てる人を嫌い、内面が似てる人を好きになりやすい。
これは親近交配の危険を本能的に避けるためだと言われている。
そして、自分に足りない部分を相手の遺伝子に補ってもらい、より良い子孫を残そうとするため、外見が正反対の異性を好むよう、人の本能はプログラムされている、というのが通説だ。

例えば、背の低い女性が体格が大きい男性を好んだり、容姿に自信のない女性がイケメンの男性を好むことが多いのはこれに該当する。

 

「私なら絶対にこんなことしない」という、自分の価値観と真逆を生きるタイプに対して嫌悪感を抱くのは、自然なことだ。

私が冒頭に話した嫌いな人は、時間に超ルーズで締切を全く守らないタイプの人間。
一方の私は、きっちり5分前行動の人間。
仕事の締切も自分で2日前倒しにしてスケジュールを組むし、計画のない行動をとにかく嫌う。

彼と私は、どう考えても合わない。
でも、思い返せば似ている部分もちょっとある。

もし私が彼に私の嫌いなところを見ているならば、彼を受け入れることが出来た時に初めて、私も自分の短所と向き合うことが出来るようになるのか。

ホットコーヒーを入れたマグカップを両手で持って手を温めながら彼の後ろ姿を見つめ、そんな事を考えた昼下がりの話。

 

美人の定義

このPVに出てくるエビちゃんこと蛯原友里さんは、今の私の1つ歳下だ。
当時中学生だった私は、エビちゃんのあまりの美しさに、食い入るように画面を見つめ、何度も繰り返しこのPVを見ていた。

この記事を書くきっかけは、まさにこのPVだった。
ある夜、YouTubeのおすすめに出てきたこのPV。
「懐かしいな~」くらいの気持ちで再生ボタンを押して、衝撃を受けた。
なんだこの美しさは。
15年前のPVだというのに、全く廃れない美しさがそこにはあった。
そして思った「私、こうなりたい」。
私はエビちゃんになるべく、美人とは何かを夜通し考えた。

 

エビちゃんのように美しくなるには、あのPVの美しさを考察する必要があるということで、私なりに出した結論が以下である。

結論:綺麗と麗しさ、二本の軸で美人は構成されている。

ただし美人の概念は千差万別なので、ここではあくまで「私が思う美人」について解説してみようと思う。

 

1,外見の「綺麗」

綺麗(きれい) の意味
1 色・形などが華やかな美しさをもっているさま。
2 姿・顔かたちが整っていて美しいさま。
3 声などが快く聞こえるさま。
4 よごれがなく清潔なさま。
5 乱れたところがないさま。整然としているさま。

綺麗-goo

美人は、外見が整っていることが大前提だと、私は思う。
動物行動学では、繁殖のための相手選びに体の対称性が重要な役割を果たしていると主張されているのは通説で、魅力度ならびに美しさを評定にも影響すると言われている。
ただし左右対称だけでなく、その人が身に付けている装飾品(服やアクセサリー、化粧)などでもある程度の【綺麗】は形成できる。
また、どんなに顔が左右対称でも、スタイルが悪かったり、においが臭かったり、声質が悪かったりすれば【綺麗】ではなくなる。
要するに私にとっての【綺麗の定義】は「顔が左右対称で、スタイルが良くて、声が落ち着いていて、良いにおいがする」である。

 

...うん。
顔の左右対称さはメイクで、スタイルは運動で、声は意識で、そしてにおいは香水でカバー出来る。
ハードルが高いが、出来なくはない。

 

2,内面の「麗しさ」

麗しい(うるわしい)の意味
1 精神的に豊かで気高く、人に感銘を与えるさま。
2 形・色・容姿などが、目に快く映るさま。
3 機嫌・顔つきが晴れ晴れしているさま。
4 人の性格・行動などが、きちんとしていてよい。折り目正しく、きちょうめんである。
5人と人との間柄が良好なさま。仲がよい。親しい。また、むつまじい。

麗しい-goo辞書

綺麗な女性でも、振る舞いひとつで一気に格が下がる。
なんなら普通の人よりその基準は高いかも。
なぜなら、綺麗な女性はその容姿がうえに、他者からの期待値が通常より高くなるからだ。
麗しさとは美学や美徳、美意識といった、内面的なものを指す。
どんなに綺麗な人でも、食べ方が汚かったり喋り方が忙しなかったり、常識のない行動をすれば、もう台無しなのである。
要するに私にとっての【麗しさの定義】は「表情豊かで愛らしく、マナーが出来て常識があり、落ち着いていて博識」である。

 

...うん。
表情と落ち着きは意識とメンタルで、マナーと常識と博識は、日々の勉強で体得できる。
きついが、意識すれば出来る。

 

なぜエビちゃんがこんなにも美しく見えるのか。
それは整った容姿を良く見せようとするだけではなく、等身大の彼女が画面越しにくしゃくしゃな笑顔で笑いかけてくれるからである。
私の美人の概念が体現されているのが、まさにこのPVだった。

 

私もこうなりたい、いや、なる。
「可愛いは作れる」ならぬ「美人は作れる」である。
いつか私も誰かに「美しい」と言われるように自己研鑽に励もうと決めた、今日この頃です。(まず痩せよう。)

 

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頑張ってって言わないで《新生活のお話》

こんにちは。
先月末より都会人になったはるらっしゅです。
約1ヵ月更新を止めてしまいましたが、皆様変わらずお元気でしたでしょうか?
本日から更新を再開しますので、改めましてどうぞよろしくお願いいたします。


さて、最近の私はというと、夏の暑さに慄き、慣れぬ土地にひれ伏しております。
地下鉄の路線図の案内図をじっと見つめ、自分がどこにいるのか分からなくなる日々。
たくさんの人が行き来する道に立ち尽くして、埋まらぬ孤独を見つめる日々。

これが俗に言うホームシックというものなのか。

とはいえ、書き物をする上で孤独は良い材料になる上、そのうちこのホームシックは消えてなくなる。
だからこそ、今感じることも思うことも素直に受け入れて、この刺々しい繊細な気持ちを上手にアウトプットしていきたいと思う今日この頃です。

 

さて、本日のテーマは【新生活】。
引っ越し後に起こった出来事や考えた事等をざれ言チックに語ってみたいと思います。

炭の喰われ熊

「向こうでも頑張れよ、これ餞別。」と先輩がくれた北海道のお土産は【木彫りの熊】もどきの【炭の食われ熊】だった。
化け物級に肥大した鮭に食いつかれた熊の悲痛な顔が何とも言えず、その顔を見つめていると向こうでの生活が不安になって、なんだか無性に泣きたくなった。

 

ばいばい、私の地元。

「二度と引っ越しはしたくない。」と思うくらい、それくらいに全てが大変だった。


体力的・精神的に結構追い詰められていた私。
あまりに引っ越したくなさ過ぎて、引っ越し一週間前から当日まで、睡眠時間平均3時間の生活を送っていた。
よくぞ生き永らえたと自分でも感心するが、思い返すと、昔何かで「人間は三大欲求のうち2つが満たせれば生きていける」と聞いた事があり、私の場合はまさにそれだった。
四六時中お菓子を貪り、イケメンアイドル達をYouTubeで観る日々。
堕落に堕落を重ねた私は、引っ越しセンターの箱に囲まれながら徐々に闇落ちし、儚く散っていったのであった。

 

とはいかない。
文章としてはまとまりが良いが、闇落ちしている場合ではないのだ。

実際かなり忙しかったので、引っ越しまではあっという間だったし、寂しいという感情を持ち合わせる余裕もなかった。

 

やっと寂しいと思えたのは新幹線の中だった。
目まぐるしく変わる風景の中で、色々な事を思い出した。
思い返せば私は、小学生から今まで地元を離れたことが無い。
全部ここで経験して、全部ここに置いていく。
人生の1/3に差し掛かるこのタイミングで、こんな大きな人生の転換期が来るなんて、夢にも思わなかった。

 

「入社当時は、30歳なんて既に子どもを産んで育ててる予定だったんだけどな。」
缶ビールを片手にそんな事を考えて、どんよりと曇った風景を見る。

次帰ってくるときはきっと、都会の饐えた女になっているかも。
それとも、気品溢れる垢抜けた都会ОL?
分からないけどきっと、今の私でないことは確か。
次に帰ってきた時には、こんな気持ちになんてならないのだろう。
こんな憂鬱さも、胸の痛みも感じないのだろう。
ばいばい、私の地元。

 
 
 
 
 
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はじめまして、私のおうち。

バルサンをして火災報知器が鳴るなんて、誰も教えてくれなかった。
そんな怒涛の引っ越し初日は、ひたすらに掃除に明け暮れていた。

玄関に盛り塩をしたり、一休さんの如く凄まじい足音で床拭きをする音に、おそらく隣人と下の階の住民は度肝を抜いたと思う。

 

狭いかなと心配していた新居は、物を置いてみると意外と物が収まって、馴染みある家具たちが余所余所しい新居を中和し、あっという間に我が家になった。

なんだろう、さっきまで地元の家が恋しかったのに、もう新しい家に馴染んでる。
人の適応能力とは、なかなかに凄いものである。

 

全ての片づけが終わった静かな部屋の中で、缶ビールを片手に周りを見渡す。
そして、クローゼットに付いた細い傷跡や、シンクの細かい傷。
そういう、私とは違う誰かがここで生きていた痕跡を指でなぞり、眺めながら思う。

見知らぬ土地と見知らぬ人の中、私もこの部屋に生きた痕跡を付けながら、新しい人生を生きる。
この不安な気持ちも、心細い気持ちも、きっといつか良い思い出となって、笑い話になるのだろう。
だから、それまで踏ん張ろう。

 

誰もいない静かな部屋で、ぽつりとひとりごちた。
はじめまして、私のおうち。

 
 
 
 
 
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頑張ってって言わないで

他人からの「頑張って」という言葉が、私は世界で一番嫌いだ。
皮肉と嫉妬といじわるが混在する、人の醜さが如実に表れた言葉だと思う。

 

育ちの良い人に囲まれて育ってきた人には理解できないかもしれないが、世の中には勉強やスポーツ、趣味や仕事など、何かに必死に打ち込んでいる人を見ると、嫌悪を抱く人が一定数存在する。

なぜなら、他者の頑張りというものは、時に人の劣等感を強烈に刺激するからだ。

人は大人になるにつれて、日々の生活に追われて、何かに夢中になる機会が減っていく。

そんな自分が廃れていくような、後ろ向きに生きているような、でも居心地の良い、そんなぬるま湯な人生に不安を抱きながらも「これでいい」と自分に言い聞かせて生きている人。

または、受験や就職などの人生を左右する局面から目を背けてきた人。

各々に事情があるから一概には言えないけど、世の中には、そういう残念な人が一定数存在する。

そんな人たちにとっての一番の脅威が、努力している人だ。

自然と目標を持ち努力できる人の存在は、惰性的な自分を肯定して生きていく上で、最も邪魔になる。
なぜなら、劣等感やマウンティング本能を強烈に刺激してくるから。
自分がダメだと客観的視点で評価できてしまうから。

 

そんな彼らの負け惜しみの言葉が「頑張って」。
「頑張って」は、「別に知らないけど(失敗すればいい)」が後ろに含まれている、人を突き放す冷たい言葉だと思う。

少なくとも、私が今までかけられた、他人からの「頑張って」には、いつも嫉妬が混ざっていた。

本当に想ってくれている人は、頑張っている人に対して「頑張って」など、口が裂けても言えない。

本当に頑張っている人に対してそんな事を言ったら、相手を追い詰めると分かるから。

だから、
「無理をしないで」
「辛くなったら相談して」
「協力できることがあったら言って」
などの寄り添ってくれる言葉こそが、その頑張りを正当に評価し、本当に応援してくれている、やさしい言葉だと思う。

 

そもそも、頑張れる人に対して頑張ってなんて、言う必要がないよね。
だって、言われなくたって勝手に頑張れるもの。
ほっとけって感じだよね。

 

でも、本当に自然と努力ができる育ちの良い人に限って、いじわるな「頑張って」に笑顔で「ありがとう」と返せるんだから皮肉だなと思う。

 

飲みにケーションなんて、クソくらえ

「はるらっしゅちゃんは気が利くね~」
泥酔の一歩手前まで歩みを進めた上席の言葉に「ありがとうございます」と笑いかけ、どうぞとお酌をする。
そしてこう思う。
「これ、私の歓迎会なんですけど。」

社内接待の不要さ

私が社会人になった2015年。
当時は今のような感染症もなかったし、私の会社はまだ体育会系の色が根強く残っていた時代だった。

私の入社した会社は当時、新入社員は暗黙のルールで社内で開催される飲み会への参加を強制されていた。
今ではこんな事をしたら一発で懲戒免職だけど、当時は飲み会の席で腰に手を回されるのは日常茶飯事だったし、私の場合、首筋を舐められてその場で蕁麻疹を発症し、皮膚科に通った経験もある。

新卒には飲み会時にそれぞれの役割があり、同期内で一番酒が強かった私は、飲み会終了後に泥酔した先輩たちを次々にタクシーへ詰め込む係だった。
タクシーをずらっと並ばせて詰め込むその光景はもはや、極道のそれである。

でも私は、それを武勇伝として語るつもりは毛頭ない。
そんな経験をしたからこそ思うのだ。
「社内接待ほど、無駄な物はない」と。

あれはもう、社内接待というより社内営業である。
そんなもので気に入られて出世するのに嫌悪感があるし、そんな飲み会人事な会社は、先が見えているので捨て置いて良いとすら思う。

今回の転勤で経営層の近くで仕事をするようになった。
そして分かったのだ。
今のお偉いさんたちもまた、そうやって偉くなっていったのだと。
だから、今偉くなった自分は接待されて当然だと思っているのだと。

そういう腐った連鎖はどうやったら断ち切れるのかと考えながら、私は「私の歓迎会」という名の社内接待に身を投じていたのであった。

飲みにケーションという日本企業の文化

そもそも酒を飲まなきゃ親しくなれない関係性とは、如何なものか。
転勤初日の上司との面談で「たくさん飲みに行けば皆と仲良くなれるよ!」と言われ、頭に浮かんだ疑問だ。

日本人は同調意識が強いせいか、なぜか社内の人間と仲良くすることに重きを置く。
でも、冷静に考えてみると、会社は仕事をしに来るところであって、私は友達を作りに来ているわけではない。

「趣味や副業があるので、あまり残業は出来ません。」
「有給は毎年全消化を目指しているので、3か月に一度、取得日をメールで打診させていただきます。」
「その分、定時内に最高のパフォーマンスで会社に貢献できるよう努めます。」
そう淡々と語る私に、目が点になる上司。
きっと私は典型的な外資の考え、そして上司は日本企業の考えなのだと思う。

 

今年から新社会人になった人や、来年から新社会人になる人に伝えたい。
きっとお盆明けから仕事やインターンの内容が重くなって、少しずつしんどくなると思う。
確かに飲みにケーションで培ったマナーや人脈はある。
それは確かだから、全てを否定するつもりはない。
でも、自分の時間を犠牲にしてまでやることではない。
少なくとも私は、ここまで8年間の社会人生活の中でそう結論付けた。

何が言いたいかというと、自分の時間を大切に。それだけ。

 

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練乳のような微睡《夢のお話》

こんにちは。

今年の梅雨は雨が全く降らずに明けたかと思ったら、梅雨明け後に豪雨が降るこの状況下で、いよいよ梅雨の概念が分からなくなったはるらっしゅです。

梅雨って、何?

お昼の定番、ジャンクフードで有名なM字の旦那の某店ハンバーガーを片手に調べてみると、以下とのこと。

梅雨(つゆ)とは、日本の5月末から7月初〜中旬にかけての、曇りや雨の日が多くなる時期のこと。日本だけでなく、中国の南部や韓国でも見られる気象現象です。

ちなみに日本の一番北にある北海道に梅雨はないとされています。日本列島に梅雨をもたらす雨雲・梅雨前線は、北海道に到達するころには勢力が弱まり、梅雨のような長雨が発生しないからです。    引用:MATCHA

ふむ、一応7月中旬までは梅雨と言えるのか。
いやでも、そしたら梅雨明け宣言とは何なのか。
ハンバーガーとポテトを両手に、謎が深まるばかりです。


さて、本日のテーマは【夢】です。
夢といっても「将来の夢」ではなく、「デイドリーム」の方です。
最近蒸し暑くて寝苦しいからでしょうか、変な夢ばかり見て目覚めます。
今日はそんな、はるらっしゅの変な夢と、夢に関連する日常をざれ言チックに語ってみたいと思います。
(引っ越しの手続きで頭が疲れているせいか、長文が書けずに短編チックに仕上がりました。)
短いからいつもより読みやすいかも、どうぞ楽しくご覧ください。

 

 

練乳のような微睡

耳元でけたましくなるスマホのアラームを乱雑に止めて、スマホを持ったまま寝返りを打った。

「平日は7時に起きたい」と毎晩意気込んで寝るまでは調子が良いのだが、如何せん低血圧の私は、目覚ましの音が聞こえてもすぐには起床できない。

なので、目覚ましのアラームを6時50分にセットして、7時までの10分間で脳を覚醒させる。

私は、その10分間が一日の中で最も好きな時間だ。


半分寝てて半分起きている、そんなトロトロとした甘く白濁した微睡の中で「今日はどんな服を着ていこうかな」とか「今日見た夢は何だっけ」「会社に行ったら、まずあの資料を仕上げないと」とおもちゃ箱のように散乱した考え事をしているこの時間は、一瞬のような永遠のような、まるで自分が現実から切り離されたような感覚に陥る。

 

時間は人の意識によって、長くなったり短くなったりする。

相対性理論って、とてもロマンチックで、とても切ないものだね。

 

何かのアニメで聞いたセリフ。

「当時の私には分からなかったこの言葉の意味が、今この時だけは、少しだけ分かるような気がする」なんて思いながら、私は今日もまた、薄暗い早朝の部屋の中でおもちゃ箱のような思考の海へ落ちていく。

 

鷹の夢

鷹の夢を見て目覚めた朝、夢に出てきた鷹の眼力が忘れられなくて悪寒がした。

初夢で見ると縁起が良いとされる【一富士二鷹三茄子】で有名な鷹の夢は、天下を統一した徳川家康が鷹狩りを好んだこと、『たか』という読みが『高い』に通じることから、夢占いでは開運や立身出世、自由な行動力を表す吉兆とされている。

ちなみに、私が見た鷹の夢はこんな感じ。

私は左右に畑が広がる広い田舎道を歩いていて、ふと目線を上にずらすと、そこにはとても大きなカラスが電線に止まっていた。

カラスは私を小ばかにしたよう見つめた後、大きな羽を広げて飛び立とうとした。

すると、その上空からカラス以上に大きな鷹(もはやあれは鷲かもしれない)が降ってきて、カラスを丸飲みするように捕食してしまう。

そして鷹は恐怖で立ちすくむ私を一瞥して、その場から飛び去っていく。

ええ、私も皆さんと同じ気持ちである。
この夢は、一体何だったのか。
訳が分からないよ。(まどマギキュゥべえ風)


ということで調べてみたら、こんな結果が出てきた。

鷹や鷲が獲物を捕らえる夢は、仕事や学業、恋愛などにおいて、何らかの成果を得ることを暗示しています。

この時、鷹や鷲が狩る獲物が大きいほど、あなたが手にする成果が大きいことを象徴しています。
人によっては、社会的地位のある方から、大抜擢を受けたり、引き立てを受けたりすることもあるでしょう。

いずれも、鷹や鷲が狩りをするその勇士は、あなたが厳しい競争社会を力強く生き抜いていくことを象徴しています。    引用:美・フェイスナビゲーター

 

ふむ、なるほどである。
人生で初めて見た鷹の夢は少し怖かったけど、良いなら良い。(語彙力皆無)
そんな事を調べてうふふと思った、朝の満員電車での一コマ。

 

目が覚めて思い出したら

「恋ってするものじゃなくて落ちるものだってよく言うけど、それに気づくのっていつなんだろう」
先日の飲み会でそんな話をふってきたA子に、軽い口調で「そんな事を考えてるまさにその時なんじゃないの?」と確信を突くような答えを出すB子。

そんな友人二人の掛け合いをハイボール片手に眺めて、私も思った。
恋に落ちたことに気づく瞬間は、いつだろう。


昔読んだ本で「試着室で思い出したら本気の恋だと思う」というタイトルがあって、その言葉にハッとした事はあるけど、恋に落ちたことに気づく瞬間というものは考えたことがなかった。


恋に落ちる瞬間は人それぞれで、多分それに気づく瞬間も千差万別だろう。
他の人と話している姿を見て嫉妬したり、ふいに手が触れて胸が高鳴ったり、気づけば目で追っていたり。

私の場合はどうだろうと考えて、そして分かった。
私が恋に落ちたことに気づくその瞬間は【朝目覚めた時】だった。
朝ふと目が覚めて、ベッドの中で最初にその人思い浮かべたら、多分それは恋だと思う。


そんな事をぼんやり考えているうちにその話題は終わり、最近の恋愛事情に移り変わって「はるらっしゅは、最近どうなの?」と話を振られていた。

私は一度思考し始めると余韻を消すのに少し時間がかかるため、そのぼんやりとした状態のまま「んー、最近久しぶりに人と手を繋いだ」と安易にこぼして、周りが「え!聞きたい!」と興奮し出す面倒な状況となった。


手をつなぐと相性が分かるなんてよく言うけど、たしかにそれは納得だった。
セックスしても胸はときめかないのに、手を繋いでウキウキしてしまうなんて、なんだか童心に帰ったような、変な気分。

「手を繋いでたらニギニギされて、おにぎりになった気分だった」なんて話を「きゃー!」と楽しそうに聞く友人たち。
そんな二人を見て私も笑いながらお酒を飲みつつ「以前関係を持った人(失恋と冷凍食品を参照)とは、手を繋いでもときめかなかったのに。」と、少し皮肉めいたことを考えて、そしてその思考に蓋をした、そんな夏の夜だった。

 

豚汁滴る良い男

その日の朝、彼が夢に出てきたからという単純な理由でランチに誘った私が悪かったのかもしれない。

私の最終出社日が迫っていたその日、私は仲の良い会社の先輩(以下Uさん/男性)をランチに誘ってみた。

彼は「じゃあ、とんかつを食べに行こう!」とスケジュールを空けて一緒に出掛けてくれたわけだが、この時私達は、その後の悲劇をまだ知らない。


食事中何があったのかは知らないし、本人に聞いても「俺も分からない(放心)」とのこと。
ただ少し食事中に私が視線を下に向けた隙に、Uさんは自身が持っていた茶碗の豚汁を胸元から被っていた。
いや、被っていたというか、浴びていた。

 

あまりの出来事に私、Uさん、そして店員はフリーズし、一瞬の間を置いた後で
私「ちょ!!!先輩やけどしてないですか!?」
Uさん「(目をぱちくりさせて放心)」
店員「(厨房にむかって)おしぼり!おしぼり持ってきて!!」
周りにいた客達「(ティッシュを持って)これ使ってください、お姉さんも足にかかってるよ!」
と、大騒ぎである。

「午後一で会議なのに・・」と青ざめる、豚汁滴る良い男・Uさん。
「大丈夫、急げば間に合います!服を買いに行きましょう!」とはるらっしゅ。
結局、飲むように残りの食事を平らげ、滞在時間30分程度で店を後にした。


無印良品でTシャツを買って試着室で着替えた後、次はパンツを買わねばと慌ただしく移動する中、「そういえば俺、明日誕生日なんだよね」とこれ見よがしに言ってくるUさんに「策士過ぎるだろう」と私は苦笑した後、「わかった、パンツは買って差し上げます」と言ったのが運の尽き。

仲良いが故に遠慮が無く「やった!俺、欲しいのある!こっち!」と飛び出していったUさんに嫌な予感を覚えながらも付いていくと、目当てのパンツは7000円だった。

「私、自分の服でも3000円以上の物は買わないのに・・」と白目を剥きながら、少しイタイ出費を出して、その日の午後を迎えたのだった。


話はここで終わらない。

後日、北海道出張から帰ってきたUさんは「先日はありがとう。これ、異動の餞別!」と、少し大きい紙袋をくれた。
「え!ありがとうございます!」と少し涙目になりながら、紙袋の中身を取り出し、別の意味で涙腺が崩壊した。


中から出てきたのは、北海道のお土産で有名な、特大サイズの木彫りの熊。
「え!!凄い・・え?」
見て数秒でものすごい違和感に襲われ、木彫りの熊を片手にフリーズする私。


皆さんは木彫りの熊を見た事はあるでしょうか?
ええ、熊が鮭を加えているあれです。そう、通常はあれなのです。
しかし、私が今持っている木彫りの熊は、鮭に食われているのです。

karapaia.com

 

「あおおおおおおおっ」と叫びながら苦悩の表情を浮かべる熊。
食物連鎖が完全に崩壊した常軌を逸したお土産に震える私。

「これ炭だから、玄関とかに置くと消臭効果あるよ!」と微笑ながら言うUさんの目を見つめ、私は「熊、食われとりますこれ。」としか言えなかった。

「最後のランチがまさか豚汁まみれになるとは思わなかったけど、でも私達らしかったね」と笑って話せる良い思い出となった、とある豪雨の昼下がり。

 

あとがき

こんな愉快な生活も残り僅かだと思うと、感慨深い。

色々な人が送別会という名の飲み会に連れていってくれて、皆が「辛かったらすぐ戻ってきなさい」と言ってくれる。
あたたかい人たちに囲まれて恵まれていたと今更気づく私は、本当にばかものだ。

そんな感慨深さに浸りつつもメンタルが豆腐な私はきっと、しんどかったら本当にすぐ泣いて帰ってきてしまうのだろう。
でも、最初はそれでいいと思う。
それを繰り返して徐々に新しい土地で自分の居場所を作り、新しい土地で新しい人間関係を作っていこうと思う。

「私のペースで着実に」を改めて決意した、今日この頃です。

SUUMOを見て泣く女《お家探しとご縁のお話》

こんにちは。

やっと家探しが落ち着いたはるらっしゅです。

暫く更新を止めてしまい、申し訳ございませんでした。

皆様、変わらずお元気でしたでしょうか?

 

私は毎日不動産屋さんとやり取りをしており、本日は「社宅契約をする上で、新事業所地域区分CDをお伺いしたいのですが」と言われ「CD・・・?」とアホ面を晒しております。

絶対それは個人に聞く内容ではない、会社に聞くやつだ。

やりとりのレベルがハードモード過ぎて、引っ越す頃には宅建が取れているのではないかと思う今日この頃です。

 

さて、本日のテーマは【お家探しとご縁】。

ここ数週間の荒れに荒れた、私の物件探し騒動をざれ言チックに語りたいと思います。

ぜひ最後までお付き合いいただければ幸いです。

 

 

SUUMOを見て泣く女

「SUUMOを見ながら泣くやつとか、生まれてこのかた見たことねーよwww」と言いながらも、その会社の先輩は仕事を30分ほど抜け出して、絶望に打ちひしがれている私をひたすら励ましてくれた。

 

6月下旬から始まった私の社宅探しは、開始3日目で早くも暗礁に乗り上げ、5日目には見事に座礁し、沈没した。

 

「もともと物件の動きが少ない閑散期に異動させようとするから悪いのよ。もう私、このままじゃ皇居の森にテント張って生活することになる。」と、焦って涙を流しながらSUUMOを検索し続ける私に「前代未聞過ぎるだろ、秒で送検されるわ。」とあきれ顔の先輩。

ケータイをいじりながら「なんか昨日書いたヤフコメのいいね数が9000を突破して、地味にバズってるんだけどw」と喜んでいる先輩を後目に、私は盛大にため息をついて自分の瞼を押さえた。

 

時は遡る事、1週間前。

私の勤める会社では、公示が出た日から社宅探しが開始される。

公示が出たその日、会社が委託している複数の不動産仲介が、自分の会社で契約を取ろうと一斉に連絡してきた。

もともと1LDKに住んでいる私なので、広い部屋でないと荷物が入らない。

希望を細かく伝えて物件情報を回収した私は、頭から血が抜けるような悪寒と眩暈に襲われていた。

 

ナニコレ。

 

地方の1LDKと首都圏の1LDKは、名前は同じだが内容は別物らしい。

私は、声を大にして言いたかった。

ベッドスペースが2帖とか、それはもう部屋ではなくて納屋なのよ。

「この間取りならいけます!」「この広さなら荷物が入ります!」などと不動産仲介は言うけれども、入る入らないの問題ではないのよ。

いや、そういう問題でもあるんだが、入る入らないだけの観点で行くと、それは家ではなく倉庫になってしまうのよ。

私、倉庫に住むことになっちゃうから・・。

 

たくさん送られてくる物件情報を、私は冷や汗をかきながら食い入るように見つめ、そして思った。

「自分で探すしかない。」

 

今思えば、当時とても温厚で有名だったE課長も異動する際、送られてきた物件情報を片手に「使えない!」と声を荒げていたのを思い出す。

そうか、そういうことだったのか。

今ならE課長の気持ちがよく分かる。

 

そんなこんなで始まった家探し。

SUUMOとにらめっこして4時間後、10件ほど候補が出た段階で仲介業者に「この物件を紹介してほしい」と、そのURLリストを送った。

 

次の日、回答のメールを見て倒れそうになった。

「全て契約済みで紹介出来ない。」もしくは「選任物件なので、弊社からは紹介が出来ない。」と回答が来たからだった。

そこから地獄は始まった。

家が決まらないのは死活問題だという事で、上司は「今日は仕事をしなくていいから、とにかく家を探せ」と私の仕事を全て代わりにやってくれる始末。

その対応が焦りに拍車をかけ、半乱狂のままSUUMOとにらめっこして同じ作業を繰り返す私。

そして今日である。

 

探せど探せど、全て契約済み。

「不動産サイトはあれか、契約済み物件を載せるサイトなのか!?」と嘆く私を見かねた先輩が「ここは?」と見せてくれた物件が、この状況を打破する鍵となった。

 

その物件は、その日賃貸サイトに掲載されたばかりの物件だった。

すぐにSUUMOで問い合わせたところ、回答はまさかの「契約済みです」。

これにはさすがに、膝から崩れ落ちた。

しかし、不動産屋が「でもここ、キャンセルが入りそうなんです。明日には結果が分かるのですが、2番手でよければ、キャンセル出次第ご連絡します。どうしましょうか?」とのこと。

この際、2番手だろうが何だろうがどうでも良い。

「お願いします」と答えて終話した。

そして、ここからが本当の戦いとなることを、当時の私はまだ知らない。

 

明日に決まると言ったくせに、回答を待ち始めて早3日。

不動産屋も「本当にすみません。(前に契約している人が)ネット回線の問題で入居を迷っているようでして、今業者に問い合わせをしているようなんです」とのこと。

あまりに時間がかかりすぎているため、一体何を問い合わせているのか聞いてみた。

そして、卒倒しそうになった。

 

先に契約した人は、在宅勤務が多いIT関係の技術職の方らしく、家のネットは個別で引かないといけないらしい。

その人は、電柱を介して引くそのネット回線を、電柱よりはるかに高い高層階の部屋で引こうとしていると言うのだ。

「え、それはつまり、その方のために特注サイズの電柱をおったてて、光工事をしようとしているということですか?それができるかを問い合わせようとしているということですか?」

と、私は顔を引きつらせて聞き、不動産屋さんも苦笑する始末。

 

いや、問い合わせ内容がツワモノ過ぎるだろう。

業者もびっくりして「え、電柱ですか?」と聞き返していると思う。

電柱を建てるだけでも大変なのに、特注サイズを作って建てるとか絶対無理だよ。

 

そんなこんなで、白目を剥きながら命を削って待つこと4日目。

周りからも「待てる女が最後は勝つぞ。我慢だ、我慢。」と説かれ続けた。

そしてついに、そのツワモノは物件をキャンセルし、私の過酷な家探しは幕を閉じたのであった。

 

戦慄の引き戻し現象

とは言え、まだその物件が社宅として契約できるとは決まったわけではない。

会社と不動産屋、そして不動産仲介が話し合って契約を結んでる現在、いつ「ダメでした」という報告がくるか分からず、不安で堪らなくて、忙しなくメールを確認する日々。

今日の占いでは「進んでいた計画がとん挫する暗示」と言われ、顔を引きつらせる始末だ。

 

こういう時に限って、要らない連絡が立て続けに来るものである。

 

とある平日の午後3時、仕事がひと段落した私はスマホを見て、背筋が凍った。
3年前に酷い別れ方をした元彼から、突然着信があったからだ。

 

その次の日、朝目覚めてスマホを見た私は、またもや背筋が凍った。
5年以上会っていない知人3名から急にLINEが来ていたからだ。
しかも内容が「元気~?」「久しぶり!」「(よく分からないスタンプ)」と、一様に意図が分からない。

 

そして昨日、別れて5年経つ元彼から、突然の不在着信。(しかも着信は1つだけ。)

 

何かがおかしい、絶対におかしい。

普段はオカルトを信じない私だが、さすがにこれは身の回りで何かが起こっていると確信し、Google先生に尋ねてみた。

 

すると、こんな記事が。

plutrablog.com

 

なるほど、絶対にこれだ。

 

そもそも知人はともかく、元彼たちは何用で連絡をしてきたのか。

別れた直後であれば、荷物の引き渡しなどで連絡を取らざるを得ないだろうけど、数年越しに連絡なんて、逆に連絡してくる度胸が凄い。

「元気にしてる?」とか「最近どう?」など、縁が切れた他人になぜ時間を割いて話さなきゃならないのか分からないし、聞く側も聞くだけ聞いて楽しくなかろう。

まさに不毛の極みである。

 

これは持論だが、切れた縁というものは、切れるべくして切れていると私は思う。

一人あたり維持できる縁というものは有限だから、互いにとって不要となった縁を切り捨てることによって、今の自分に必要な新しい縁が繋がれる余力を確保することができると思っている。

 

一方で、必要な縁は努力せずとも、自ずと繋がり続けると思っている。

例えば今回の引っ越し。

私の転勤が決まったタイミングで、社内で一番仲が良かった同僚の転職が決まった。

しかも勤務先は同じ県で、私が次に勤めるオフィスから徒歩30分圏内。

なんならお家は同じ沿線。

これには思わず、腰を抜かした。

 

だから一度縁が切れた人と再度繋がるのは抵抗があるし、切れている縁をまた繋いでも簡単に切れると思う。

それに縁が切れた人との思い出は良いものもあるけど、悪い思い出で終わっていることも多くある。

だからそういう人と再び繋がることで、昔の嫌な自分に逆戻りしそうで恐ろしくなるのだ。

 

今思えば、この【引き戻し現象】は昔からあった。

誰か新しい人と付き合おうとすると元彼から連絡があったり、何かを買った後で別の商品を見つけたり。

 

人は一日の生活の中で、約35,000回の選択をしているという。

毎日この数を繰り返すのだから、時には選択を間違えることもあるだろうし、甘く楽な選択に身を委ねたくなる時もあると思う。

 

【引き戻し現象】とは、そういった甘く楽な誘いで現状に留まらせようとする、成長を止める嫌なものだと思う。

そして、新しい場所で覚悟を決めてやっていけるか問われている、神様からのテストなのではないかと思う。

だから私は、あえて連絡は絶対に取りたくない。

今まで頑張って成長してきた自分を否定するような行為だと思うから。

 

結局私は、連絡をくれた昔の人たちからのメッセージを全て未読削除して、この不思議な体験に幕を下ろしたのだった。

新しい場所で新しい人と出会って新しい人生を送る、これでいいと思う。

連絡をくれた彼らも、どうか私の事はすっかり忘れて、新しい縁で結ばれた人たちと幸せに生きてほしいと願う、今日この頃です。

「信心深い」は悪いこと?《宗教と信仰の話》

こんにちは。

転勤を8月に控える今日この頃、引継ぎに奔走するはるらっしゅです。

 

総務のお仕事は多岐にわたるので、引継ぎは永遠に終わりません。
とりあえず必要最低限を引継ごうと思って簡易マニュアルを作ってみると、ワード106枚の超大作が出来上がりました。

いや簡易で100枚を超えるとか、こんなの一体誰が読むのよ。

今思えば4年前、私も前任から渡されたワード60枚分の引継ぎマニュアルを両手に抱えて「これ、多過ぎでしょ。」と途方に暮れていましたが、今思えばあれは、かなり削った内容だったのかもしれない。

仕事というものは、意外とブラックボックス化している事が多いようです。
次の仕事では、逐一引継ぎマニュアルを仕込んでおこうと学びました。


さて、本日のテーマは前置きとは全く関係がない【宗教と信仰】です。
どうぞ最後までお付き合いいただければ幸いです。

 

 

信心深いはるらっしゅ

私は特定の宗教に入信しているわけではないけれど、信心深い。

私の父が特に信心深く、実家の神棚は綺麗に手入れし、毎朝毎晩手を合わせ、ベッドの頭の方にはよく分からないお札が貼ってある。

実家に住んでいた頃は、毎日神棚に手を合わせてから外出するように強く言われていたし、年明けの氏神様への初詣は、私がどんなに二日酔いでグロッキーな状態でも、毎年引きずられて参拝させられる。


そんな家庭で育ったせいだろうか。

私の一人暮らしの家にあるドレッサーの上は、私にとっての神棚となっていて、ご祈祷で賜った木札やお守り、おみくじを祭る場所と化している。

それを見た元彼たちは、一様に引いていた。

 

そんな信心深い私には、誰にもわかってもらえないであろう、絶対のルールがいくつか存在する。


まず1つ目。
私には、正月の深夜0時に参拝する神社、仕事の報告に行く神社、恋愛について報告に行く神社、ご祈祷を受ける神社、おみくじを引く神社‥といった具合に、用途に合わせて参拝する神社が全て決まっている。

どんな状況下に置かれても、これは絶対だ。

神様は神社から離れられないから、私が顔を見せて報告に伺うことで、まるで田舎の祖父母に会いに行くような心境になると同時に、私にとっても良い節目となって、また頑張る活力が生まれる。

なので、休日に高速道を時速120㎞でぶっ飛ばし、わざわざ参拝に行くことは割と日常茶飯事なのである。


そして2つ目。
自分でも面倒くさい性格だと思うのだが、買ったお札やお守りは1年後に必ず、買った神社に奉納する。

私にとってそれらは、その神社の子どもみたいなものだと思っている。

親元を離れて寂しかろうに、そんな素振りを微塵も見せずに毎日私を守ってくれている。

こんなの、感謝しない方がおかしいだろう。


誰だって実家が好きだ。
私だって暇があれば実家に帰りたい。

でもお守り達は自分の力で実家には帰れないから、私が「1年間私を守ってくれてありがとう」と感謝を込め、任期満了ということで奉納しに行くことで、お守りの魂を親元である神社に戻す。


こんな感じで色々とルールが存在するのだが、先日この話を父に話した際「え、そこまで?」と若干引かれた。

正直、枕元にお札を張っている人に引かれたくはないよね。

 

信心深さは運に比例する

先に申し上げるが、これはあくまで持論であって「何かに入信しなさい」という勧誘ではないので、あしからず。
そもそも私は、どの宗教にも入信していないし。


先日ネットサーフィンをしていた際、こんな記事を読んだ。

president.jp

 

私も比較的運が良い人間で、特に人に恵まれていると昔から思う。

例えば、転勤に伴う家探しは「土地勘が無さ過ぎて、これはあかん」と頭を抱えた私の上司が「ここ俺の地元だから」と、わざわざ有給を取って一緒に内覧に行ってくれることになった。

奇跡はこれに留まらない。
私の転勤が決まったと同時に仲の良い同僚の転職が決まって、同時期に同じ土地へ引っ越すことになった。

こんな感じで、私には必要な時に必要な手助けが常に用意される。


上記の記事では、信心深い人と運の良さをこのように解説している。

信心深い人は周囲への感謝の念が強い人であり、寺社仏閣に足しげく参詣するのは、苦しいから神頼みをしているのではなく、日頃の神仏の恵みに感謝するのが目的だ。

そういう人は、自分の力を過信せず、周りの力もあって自分は生かされているのだと考えるため、周りからサポートを受けやすくなり、成功する可能性が高まる。

 

確かに思い返すと、私は神社に行ってお賽銭を投げた後、お願い事をしたことが無い。
いつも住所と氏名を述べた後、近況を報告した上で「これからも〇〇をこんな風に頑張ります」と締めるよう、父方の祖母に教わっているからだ。

それに常識で考えて、100玉1枚でお願い事を叶えて貰おうとか、おこがましいにも程がある。

だから私が神社に行ってお賽銭を入れる理由はいつも、私の決意を神様に聞いてもらうため。
それくらいの気持ちでいる方が、日々の嬉しい出来事により感動できると思う。

 

宗教とは、結局何なのか

信心深いと言うと、人から引かれることが多いような気がする。

どうしてだろうと考えると、その背景には敗戦と新興宗教による有名な事件があるという結論に至った。

国が徹底的に宗教を弾圧した結果、宗教に関する知識が無くなって苦手意識が生まれ、結果日本の宗教偏差値は世界最低レベルなったのである。

しかし、宗教と人間の繋がりというものは切っても切り離せない。
なぜなら、言葉がない時代から信仰というものはあったのだから。


そもそもなぜ宗教という概念は生まれたのだろうか。

これは持論だが、人間にはどうにもならない事象が発生した時に、それを説明するために生まれたものが「宗教」ではないかと思っている。

昔の人は病気や不作、日照りなど、人がどう頑張っても報われない事を「神様の怒り」という考え方で納得しないと、きっと腑に落ちなかったのではないだろうか。

人は弱いが故に分からない事を嫌うので、それらに答えを見出すために宗教が必要だったと思う。


では、なぜ科学が発展して病も不作も、日照りも解消出来る世の中になったというのに、宗教はなくならないのか。

それは【人が生まれてきた目的が誰にも分からないから】ではないだろうか。

人生の目的が分からなければ、頑張って生きる意味も分からない。

どんなに医療が発展して苦痛を緩和し、命を延ばすことは出来たとしても、その延ばした命をどう使えば良いのかは、誰も教えてくれない。

ここで初めて、宗教が役に立つ。

人は弱いが故に、分からない事をとにかく嫌う。

人が分からないの三大要素である「本当の幸福」「人生の目的」「死」は、科学や医学では解決できないから、宗教で答えを見出すしかない。
だからきっと、人類の存続する限り、宗教は無くならないと思う。

 

こんな話をすると、希望も何もないと非難されそうだが、私はこの世が地獄だと思って生きているし、この世は地獄だからこそ、この世には実態をもつ神様がいないのだと思っている。

だって、神様は地獄のような汚れた土地に足など付けたくなかろう。
だから「神社」という中継地点を立てて、参拝時に鳴らす鐘の音を介して地獄に住む愚民どもの声を聴いているのではないだろうか。
これは何かの宗教に影響されて言っているのではなく、純粋に自分の考えの基で思っている。
(これを友人に話した際は「まじで変わっている」と苦笑された。)

でも、こういう考え方も一つの宗教なのではないだろうか。

お金を稼ぐことに執着する人は、その心に「お金が大事」という自分の宗教がある。
科学的なものしか信じられない人は、その心に「科学が全てだ」という自分の宗教がある。

皆「私は無宗教だ」「宗教ってなんか怖い」などと言っていても、結局自分の中には自分の宗教がちゃんと存在していると、私は思う。

 

あとがき

日本には新興宗教も含め、18万以上の宗教法人がある。
世界で算出したら、その数はもう無限に近いだろう。

でも、それで良いと思う。

信じる者は救われるじゃないけれど、人の信じる力というものは、時に生きる上で大いに役立つ力となる。

あなたの心を軽くしてくれるものならば、何を信じたって正解だ。

互いに尊重し合いながら皆が幸せに暮らせるように、たくさんの宗教と信仰が共存できる社会が続きますようにと願う、今日この頃です。

 

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ホロを散りばめたマジパン《美しさのお話》

こんにちは。

最近はK-POPの沼にハマって、抜け出せなくなりました。
化粧品から食べ物まで、ほぼ韓国産を選ぶようになったはるらっしゅです。

特に韓国贔屓をしているわけではなく、どうしたらK-POPアイドルのように美しくなれるのかと考えた際に「使う物や食べる物を全てK-POPアイドルに寄せてみれば、それっぽい雰囲気になれるのでは?」と思った次第です。

ええ、分かっています。元来私は極端な性格なのです。

でもいざやってみると、韓国の化粧品や衣服はおしゃれで質も良い。
「これはいけるかも!?」と思ったのもつかの間、食べ物は味が濃いものが多いせいか、少しだけ太りました。

しかしこれは、韓国料理が悪いという話ではございません、逆です。
キムチやサムギョプサル、ヤンニョムチキンにナムル。
あまりの美味しさに、私が食べ過ぎました。
朝にドレッサーで自分の二重顎を見た時の絶望たるや、いかほどか。

何事もほどほどが一番ということで、食事は以前のように和食中心に戻すべく、大人しく大根とイカの煮物をせっせと作っております。


さて、本日のテーマは【美しさ】。
久しぶりの投稿で少し腕が鈍っているかもしれませんが、どうぞ最後までお付き合いいただければ幸いです。

 

ホロを散りばめたマジパン

初めてK-POPアイドルを観た時の感想はこれに尽きた。

陶器を彷彿とさせる白い肌と歯。
ホロとラメを散りばめた大きな目。
まるでCGのような一糸乱れぬダンスと、砂糖菓子のような甘い声で歌うその姿。
当時【坂道シリーズ】と呼ばれる庶民派アイドルが流行っていて、それに見慣れた私からしたら、彼女達の完成されたその姿は衝撃的で、テレビにくぎ付けになった。

それ以来、私は何年も変わらずK-POPアイドルが大好きだ。
好きというより、お手本にしていると言った方が正しいかもしれない。

そして私はK-POPアイドルをきっかけに、韓国文化についても学ぶようになり、なぜK-POPアイドルがあれほど美しいのかを知って、腑に落ちた。
韓国人は芸能人だけでなく、一般人も容姿が整った人が多いのである。


韓国では生まれた時から、容姿や外見を評価されるらしい。
それは男女限らず、この子は美人だ、あるいはその逆も歯に衣を着せず、周りからはっきり指摘され、若者の会話の中でも「ねぇ、その目整形しちゃえば?」などといった話題が出てくる始末。(日本でやったら、友達を失くすこと必須。)
日本人も歯科矯正であれば抵抗はないけれど、韓国では親が子に整形を勧めるのだから、その度合いの差は明らかだ。
そして、そんな評価が幼少期から大人になっても永遠に続くのだから、外見至上主義になるのは当たり前だと思う。


人は様々な環境の中で、自分の個性や能力を評価される機会があるため、外見だけにこだわり続ける必要はない。
しかし、潜在意識の中に容姿に関する価値観は誰しも持ち続けるし、人は美を追い求める生き物なのである。

そして、それが特に顕著な韓国社会では、特に女性の場合、美を追求することが自己価値を上げる最大の手段だし、最新の美容法や化粧品が広がる以前から、韓国には民間療法的な美容法や美肌法が多く存在しているのも、韓国女性が昔から美容に高い関心を持ち、実践してきた証拠なのだと思う。

 

崩れたケーキは選ばない

美しさに固執することは悪か。

他者との会話の中で「美」に関するテーマは正直出しづらい。
出せたとしても、そこには必ず他者に対する「思いやり」という名の「お世辞」が含まれている。

「前髪切り過ぎちゃって」「え~、似合ってるよ!ちょうどいいって!」
「最近太ったかも」「全然変わってないように見えるよ?むしろ前の方が痩せすぎだって!」
といった具合にだ。

言う方も「フォローを入れてくれる」と事前に分かった上で言うので、ここで「うーん、ちょっと切り過ぎかもね」「あー‥確かに少し太った?」などと言った暁には、もうこの世の終わりである。

 

そんな「美」に関する話題で、私は忘れられないエピソードがある。
それは、新卒で入社した会社の採用担当に言われた言葉だ。

私が入社した会社では当時、内定者に対して「なぜ貴方がこの会社に受かったのか」「会社は貴方に何を求めているのか」という内容を、採用担当が内定者へ個別に面談して伝える機会が設けられていた。

そして私はこう言われた「貴女の一番の採用理由は、容姿よ」。

目が点になった。
え、容姿?私、色々頑張ってプレゼンとか‥え、容姿?
採用担当者は、目が点になる私ににっこりと微笑み、こう続けた。
ここから続く言葉の衝撃は、あれから8年経つ今でも忘れられない。


もしここにケーキが2つあったとして、片方は綺麗な形、片方は崩れていたとしたら、どちらを取る?
んー、はるらっしゅちゃんの性格じゃ、遠慮して崩れた方を選ぶかもしれないね?
じゃあ、ケーキじゃなくても良いわ。
買い物をする時、品を確認して傷が無いものを選んでレジに持っていくでしょう?
勿論人は顔だけじゃないけど、もし選べるなら綺麗な方を選ぶ。
採用だって選んでいるのは人間だから、結局はそういう基準になるのよ。


「どうせ売ってもらえるなら、綺麗な人から売ってもらった方が嬉しいじゃない?」と綺麗に笑う採用担当の言葉に私はショックを受けたが、同時にこれは真理だと思った。

美しさは力だ。
美しさはこの世界で生きていく中で、大いに役立つ「生きる力」になり得る。
時折美人が威圧的に見えると言われる所以は、多分これなのだと思う。
それ以来、私は外見に対する基準がより厳しく、美しさに固執するようになったような気がする。

 

私の顔の造りは良くも悪くも平均で、派手な特徴はないけれど欠点もない。
特徴がないからこそ、メイクや髪型、服、香水、アクセサリーでいくらでも化けられる、便利な容姿をしている。
自分でそれが分かっていたからこそ、私はそれらを駆使して綺麗だと評価されるようにずっと努力してきた。

当時の採用担当に容姿が採用理由だと言われた時、私は私のその努力が認められたような気がしたと同時に、私の考え方は間違いではなかったと確信した。


世の中「心の綺麗さ」とか「内面の美しさが大事」なんてよく語るけど、よくよく考えてみれば、ファーストコンタクトは結局、目に見える情報が全てなのである。
例えば合コンに行ったとして、綺麗な人とそうでない人が居たら、どちらと話をしてみたいだろうか?
内面を知るというのは、対話することが前提だ。
綺麗な人の方が話しかけてもらえる率が高く、内面を知ってもらえる機会も増えるのではないだろうか。


人の外見は生まれ持った形があるから限界はあれど、やはり自分を知って、自分の似合う服や髪型やメイクで、自分の限界値まで自分を高める努力をすべきだと思う。

外見を綺麗に整えれば、少なからず他人から親切にされることが増えるし、それに伴って自分自身も人に優しくなれる。

コミュニケーションを取る際に、自信と余裕が持てるようになる。
何もせずに惰性に生きて綺麗な人を僻んでいるような人は、それこそ外見だけでなく内面も荒んでいるように見えてしまうのは当たり前。

私もまだまだ努力の途中だが、それでも努力分は良い出会いやご縁はあったと思うし、何より自己肯定感が上がって、自分を好きになれた。

 

「可愛いは作れる」ならぬ「美人は作れる」なのだ。

 

目指すべきは《苺のショートケーキ》

とはいえ、容姿だけでは駄目だということは勿論分かっている。
容姿の綺麗はお金で買えるけど、それだけではいつか綻ぶ。

 

そもそも「美人」とは何か。
広辞苑によれば「『美』とは、知覚・感覚・情感を刺激して内的快感をひきおこすもの」とある。
つまり「美人」とは単に視覚的に整っているだけでなく、例えば聴覚(声)や臭覚(におい)、触覚(肌ざわり)は言うに及ばず、情感を刺激する雰囲気や所作、人となりまで全て含めた全体的な魅力によって、相手に内的快感を引き起こさせる人と定義することが出来るのだ。

 

この歳になると、色々な人と出会う。
そして、私が総じて綺麗だと思う人は「余裕がある人」だ。
他者の気持ちを思いやって、察して、相手を不快にしない言動が取れる余裕がある人。
ゆったりとした所作で、落ち着いた声色で話す余裕がある人。
そういう人はなんだか、話していてフカフカして気持ちが良いのだ。

皆が皆、顔の造形が整っているわけではない。
でもそういう人は纏う雰囲気がゆったりと余裕があって、なんだか妖艶。
そして、そんな人は少し崩れた顔のパーツすらアンニュイな魅力に思えてくるから不思議である。

 

見た目は滑らかで真っ白、苺の乗った華のある容姿。
そして、中身は優しい甘さのフカフカなスポンジ。
私はそんな、苺のショートケーキのような女性になりたいと思う、今日この頃です。

 

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おもちゃ箱のようだ《未公開記事のお話》

こんにちは。

各地続々と梅雨入りし、私の住む地域もじっとりべっとりな今日この頃。

ナメクジのようにソファーにうだっております、はるらっしゅです。

皆様ご無沙汰しておりました、お元気ですか?

 

最近少しスランプ気味で筆を執る気になれず、ひたすらのんびり過ごしておりました。

「でもまあ、たまにはそんな時期もあるよね」ということで、凄まじい勢いで自分を甘やかしております、誰か叱ってくれないかしら。

 

さて、私の書くブログには、未公開の記事がいくつかございます。

それらは総じて、書いているうちに「やっぱり載せるのやめよう」とか「なんか違う」となってお蔵入りするのですが、下書きに溜まって、それはまるでおもちゃ箱を彷彿とさせるカオスっぷりです。

 

ということで、今回は《おもちゃ箱》もとい《下書き》を整理する回です。

私が以前執筆したにも関わらず、気分が急に乗らなくなってお蔵入りした作品をリメイクしてお届けいたします。

ぜひ最後までお付き合いいただければ幸いです。

 

 

指輪の墓場《失恋後の感情整理のお話》

忘れられない恋物語などと表現すると、なんだか特別に感じるけれど、相手が違えば内容も様々なわけで、何一つ忘れられる恋物語なんてないと思う。
だから、人はそれを記憶の奥底にしまい込んで前に進めるように、新しい恋をするし、その努力をするのだ。

 

先日失恋した友人N子が「今から海に行こうと思う」と連絡してきた夜8時半。

私は家で温めた無調整豆乳を飲みながら、Netflix約束のネバーランドを観ていた。
その日は、本来であれば私の家でN子とお泊まり会をするはずだった。

「海って、どこの?」私は電話をスピーカーに変え、花粉と涙(約ネバに感動して少し泣いていた)でグズグズになっている鼻をティッシュで拭いた。

「あそこ、覚えてる?前に一緒に行ったとこ。」
「あー、でもあの辺夜真っ暗じゃん。お化け出そうだし、危ないって。」
私は夜の海が苦手だ。真っ暗な先の見えない闇と大きな波音を聴くと、身が竦む。
「大丈夫だって、てゆーか、あと10分くらいで着くから暖かい恰好に着替えて」
「え?」
「もう大通りだから、あと10分くらいではるらっしゅの家に着くから」

電話が切れた後「暗いしマスクだし、化粧はいいか。」と、部屋着にダウンコートを羽織り、キャップを深く被った。
そして、鍵とケータイを片手に、私は慌ただしく家を出た。

 

元恋人から貰った物というのは、念が込められている気がして気持ちが悪い。
相手からの念ではない、自分の念だ。

 

私は元カレから貰った物は、基本的に全て燃やす。
父の趣味は焚火なので、昔から庭の一角に焚火台が設置されていた。
私はいつも、燃えるもの(本気を出せば大抵燃える)は全て段ボール箱に詰めて、薪と一緒に燃やす。

いわば火葬だ。
そのせいか、父は私の趣味が自分と同じ焚火だと勘違いしているようだ。
私が焚火台で物を燃やしているのを、例え明らかにおかしい煙の色を目撃したとしても、いつも優しい眼差しで見守ってくれている(多分何を燃やしているのかは、分かっていない)。

 

ただ、指輪だけは別だ。
私は皮膚が弱いため、基本的にネックレスやピアスを着けない。
唯一着けるアクセサリーが指輪だから、元カレ達はいつも私に指輪をくれた。
これだけはいつも何故か燃やせなくて、火葬した灰(残骸)と一緒に庭の土に埋めて、手を合わせる。お墓を作るのだ。
私が家を出た後も、失恋するたびに帰省して、毎回せっせと土を掘って埋めているので、母に「お前は犬か。」と心底嫌そうな顔をされる。

しかし、私にとってこれは儀式だ。物の処分でなく、感情の処分なのだ。
「今までありがとう、私が次に進めるように、彼への感情は今ここで死んでくれ。」という感謝と決意と願いを込めて、全てをそこに埋める。

 

誰でも失恋はしんどいし、その感情の整理方法も様々だ。
でも次の恋愛に進めるのなら、方法なんて何でも良いと思う。


はめていた指輪を轟音がする漆黒の闇へ放り込む。

 

すっきりしたような、少し悲しそうな、何とも言えないN子の姿を、コーヒー片手に後ろから眺めて、そんな事を考えた、とある春の夜のお話。

 

フェアリーゴッドマザーの不在《思い込みのお話》

幼い頃、当時の家のベランダからは毎日ディズニーランドの花火が見えた。
私はシンデレラの水色のドレスを着て、プラスチックのティアラを頭に乗せ、毎日飽きずにその花火を眺めていた。


私は信じていた。
いつかお姫様になって、白馬に乗った王子様と大きなお城に住むのだと。
私は信じていた。
私はシンデレラになれるのだと。

 

思い込みという言葉から連想されることは何だろう。
Googleで「思い込み」と検索すると1,310,000件がヒットするが、その大抵が「思い込みの壊し方」「思い込みから解放」「思い込みをなくす」などだった。
思い込みは世間ではあまり良いイメージがないようだが、私はそうは思わない。
今日のテーマは、私の思い込みに対する思い込みが変わった、そんな話。

 

そもそも、思い込みとは何か。
思い込みとは、ある物事について深く信じ、固く心に決めこと。
そして、自分が「これだ」と思ったことに対し、心が揺るぐことなく強く信じ込むことが「思い込み」と定義されている。
こう聞くと、周りからどんなことを言われようと、他に良い方法があろうと、その一案に執着し、信じ込むような【負のイメージ】を抱く方が多いかもしれない。

 

▽思い込みは自分を変える最強の魔法

「お前が強く望めば、何にだってなれるんだよ。自分は無敵だと思い込んで、思うままにやってみなさい。きっとうまくいくよ。」

高校受験の当日、ガチガチに緊張していた私に父が優しく語りかけてくれた言葉だ。

まだ考えが未熟だった私は、今までそういった思い込み(一種の自己暗示)を「ナルシストがする中二病野郎の思考」だと思っていたが、当日の私は普通ではなかった。
普段無宗教の私が、受験当日のその日の朝は神棚に土下座して動かず、ここに来て腹痛を起こしたかと母が狼狽えていたのだから。
藁にもすがる思いで、「私は最強私は無敵私は出来る」と呪文のように唱え、受験会場の門をくぐった。

 

思い込みは人を強くする。
例えば【火事場の馬鹿力】という【土壇場で普段では想像できないような力を無意識に発揮する】という意味の言葉があるが、これも思い込み(ある種の催眠状態)が人を強くするという、良い例えだと思う。「自分は出来る」と思い込み、それを信じて疑わない人間ほど強いものはない。

その日、直前の入試模試でC判定を受けていた学校を受験した私は、500点満点中475点という、今まで取ったことが無い好成績でその学校に入学した。

この経験が私にとって「思い込みは悪いもの」という思い込みを一掃してくれた出来事だった。

 

あれから様々な試練や困難があったけれど、父がくれたこの言葉は私にとって不動だ。
私はいつだって無敵だと自分に思い込ませて、いつもそれらに立ち向かってきた。

私達は何歳になっても、何にでもなれる。
「私は出来る」と思い込んで、しっかり努力を積み重ねていけば、願いは叶う。

ディズニープリンセスのドレスやプラスチックのティアラはもう似合わないけれど、それでもきっと、私が思い込めば、私は今でもシンデレラになれるのかもしれない。

 

画面の前のあなたもそう。
あなたが強く望み思い込めば、世界一美しいプリンセスやかっこいいヴィラン、アメコミに出てくるスーパーマンにだってなれる。
あなたの世界が、ほんの少しだけだけど、今以上に色鮮やかになる。
フェアリーゴッドマザーが居なくたって大丈夫。
思い込みこそが自分を変える最大の魔法なのだから。

 

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マグロになった齋藤さん《仕事の笑えるお話》

こんにちは。

雨が降ると髪の毛が爆発するはるらっしゅです。

朝に頑張ってセットして家を出ても、最寄り駅に着く頃には全部とれていて、セットに使った15分を返せと虚しい気持ちになります。

「髪を結べば良いのでは?」というお声も聞こえてきそうですが、如何せん私は顔が丸い。

その顔の丸さを隠すためになるべく髪は下ろしていたい。

そんな葛藤に日々苦しめられている、今日この頃です。

 

さて、私は雨が降ると必ず思い出す出来事があります。

本日のテーマは《仕事の笑えるお話》。

はるらっしゅが過去に遭遇した仕事の笑い話を、ノンフィクションでお届けします。

最近は少し真面目な話題が続きましたので、今回はお笑い回です。

さらりと読める文量ですので、ぜひ最後までお付き合いいただければ幸いです。

 

マグロになった齋藤さん

マグロは泳ぎ続けないと死ぬらしい。

マグロは口を開けて泳ぎ、エラを通過する海水に溶けた酸素を常に取り入れながら呼吸するラムジュート換水法で呼吸をしているためだ。

つまり、泳ぎを止めると酸欠状態で窒息死。

魚の世界も色々あって大変だと思う。

 

その日はどしゃぶりの雨だった。

雨の日の夕方は頭がぼーっとするので、コーヒーを買おうと、会社のビルの1階にあるカフェに行く途中、携帯が鳴った。

「今出先でさ、社用車の鍵を失くしたんだけど、どうしたらいい!?」

所長からだった。

言葉の意味が分からず「あっ、所長ちょっと待ってくださいね」と言い、のんきに店員さんにコーヒーを注文する私。

「いやさ、コーヒーっておま、、」
「あっ、ミルク多めで!」と、全くかみ合わない会話。

支払いが済んで、熱々のコーヒーをズズッと啜り歩きながら私は思った。

なぜ車の鍵がないと言っているのに、この電話からは走行音が聞こえているのか?

「所長、今車走らせますよね?座席の下にでも落としたんじゃないですか?」

私は携帯を耳と肩で挟み込み、エレベーターのボタンを押した。

「違うんだって、」事の顛末はこうだった。

 

所長はその日、部下の齋藤さんと二人で遠方に営業に出かけていた。

その帰り道、給油をしようと立ち寄ったガソリンスタンドで悲劇は起きた。

齋藤さんは何を思ったのか、鍵を車の屋根の上に置いて給油をしたそうだ。

(所長は車内で電話をしながらiPadを触っていたそうで見ていないらしい)

その後、無事給油が終わり、再び運転を再開した齋藤さん。

走り始めて約10分後、高速道路に入ったタイミングで彼女は一言こういった。

「あれ、、、所長。私、鍵どうしましたっけ?」

 

あまりのアホっぷりと事後処理の大変さに、もう笑うしかない私。

笑いを押し殺すように、咳払いを2回。

所長が電話をスピーカーにしているので、「はるらっしゅさん、これ止まったら終わりですか!?死んでしまいますか!?」と明らかにパニクっている齋藤さん。

そして、それに対して「大丈夫だ!はるらっしゅが何とかしてくれるから、いいから前見て運転してろ!」と声を張る所長。

所長、私JAFの人じゃないです。

 

とは言え、車の管理は総務の仕事。私は指示を出すために急いでデスクに戻り、電話をスピーカーにしてPCのロックを外した。

「どうした?」近くにいた別部署の部長が、電話の騒がしさにつられてやってきた。

「ああ、〇〇さん」部長の声が聞こえたようで、改めて事情を説明する所長。

「止まったら終わりってそれ、マグロじゃねーか」と爆笑する部長。

その笑い声につられて、我慢していた笑いが込み上げ、思わず吹き出す私。

しまいには所長も笑いだす始末。

「笑ってる場合じゃないんですって!」という齋藤さんの大声が虚しく響く(失くしたのは齋藤さんなんだけど)、笑いが溢れた雨の日の夕方。

毎日大変だけど、こういう笑いがあるから、この仕事は辞められない。

※所長と齋藤さんは無事帰社し、スペアキーを渡して事態は収拾しました。めでたしめでたし。

 

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